野生株のポリオの流行 日本では第二次世界大戦後の栄養不良や水道の普及が遅れていた時代にポリオが繰り返し流行していました。1951年に4000人を超え、以後やや下火になっていたものの1960年には5606人もの患者が出て北海道や九州を中心に全国的なパニック状態になりました ポリオのワクチンは不活化ワクチンが輸入されたり、日本でも製造が始まっていましたが、需要に追い付かず、更に国産品は国家検定に合格しなかったりで、流行を終息させるにはほど遠い状況でした。 生ワクチンの登場 米国で不活化ワクチンとは別に生ワクチンも開発されましたが、当初は不活化で解決できるものと考えられたため、生ワクはほとんどかえりみられませんでした。しかし不活化ワクチンでは流行がなかなか終息しませんでした。 一方、生ワクの開発者のセービンは、大流行のあった当時のソ連に技術を公開して、東欧で大規模な野外実験と接種が開始されました。その驚異的な効果が日本にも伝わってきました。 まだソ連との国交が無い時代でしたが、大流行が繰り返されたために全国的なパニック状態となり、国民の生ワクを求める運動は日に日に強くなりました。国民の必死の思いに押されて、ついに厚生大臣は安全性の確認も取れないまま決死の政治判断をくだし、ソ連とカナダから緊急輸入しました。 当時の状況はNHK記者の上田哲氏が「根絶」という記録小説に記しています。
ワクチンによるポリオ 昭和39年からは、国内メーカーの生産施設の完成に合わせて、充分な実証もされないままこの年なかば強引にも国産の生ワクチンに切り替えられました。現在の予防接種の副反応の患者の数にくらべても、多くの子どもがポリオになったり、副反応で亡くなったりしていました。このことは、世間の不安をあおり一部では社会運動ともなったのですが、ほとんどの新聞では詳細についても語られませんでした。 当時の新聞記事には、予防接種直後に20−30名の子供がなくなったと書いてある記事もありました。この記事の下にも亡くなった方の記事が載っていますね。ほとんどの場合、正確な検査も受けられず、突然死などの他原因として解剖もされずに荼毘にふされたという内容もありました。 そうした社会不安の中、昭和39年3月の第46回、国会衆議院において、内閣総理大臣「池田勇人」の「国産生ワクチンは無害であり、安心して生ワクチンの投与をうけられるよう、積極的に国民に呼びかけ。」もしています。 実は、1959年から不活化ワクチンというものはあったのですが、不活化ワクチンは費用も高く、絶対数が不足していました。経口生ワクチンは、コストも少なく、接種もしやすいですから、1960年代の日本のような財政状況で、医療環境も整っていない状況においては、圧倒的に大きな効果をあげることができました。ただ、経口生ワクチンにはポリオにかかってしまうリスクがありました。 現在では、予防接種法では、「予防接種は、集団予防上重要な措置」として位置づけられたおり、「副反応は、関係者に過失がない場合にも起こりえる」と考えられていて、「不可避的に健康被害が起こりうるにも関わらず予防接種を実施することから、特別な配慮として法による救済措置は不可欠であるとされています。」 私は、昭和38年生まれで、昭和39年に経口ポリオワクチンを受け障害が残りましたが、認定を受けたのは昭和40年になったころでした。 その後も、平成24年9月1日に不活化ワクチンに変更されるまでは、数年に一人又は年に数人の割合で、ワクチンによるポリオ患者は出続けていました。 また、昭和50-51年(1975-76年)頃にポリオワクチンを接種した方の中には、免疫がきちんとついていない方も多いと考えられています。これらの年代の方が、お子様の生ワクチンの接種した後に2次感染によりポリオになった方もみえます。 また、ポリオがまだある国に行ったり、海外からポリオウイルスが入ってきた場合には、その方々はポリオになってしまう可能性があるとことです。 世界では、今まだポリオが流行している地域もあります。国を超えた人の移動が盛んな現在においては、いつまた流行が始まってもおかしくありません。 ポリオは根絶宣言されましたが、予防接種によりポリオになった人がたくさんいて、その後、ポストポリオ症候群にかかる可能性があるという事をみなさんに知ってもらいたいと思います。 |